蘆名盛氏の生涯を簡単に解説!財力により国力を高める!

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蘆名盛氏(あしなもりうじ)、ほとんどの方は知らないと思います。ですが、武田信玄や伊達氏、北条氏と同盟を組み蘆名家を大勢力にした武将でかなり優秀なお方でした。今回はこの蘆名盛氏を簡単に紹介・解説していきたいと思います。蘆名盛氏は東北地方の陸奥(福島県)の武将ですね。

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そもそも蘆名家とは

鎌倉時代中期、会津地方に移り住んだ蘆名氏は、独自に法律を作り、室町幕府に無断で会津主語を名乗っていました。 蘆名盛氏(あしなもりうじ)が当主となると、蘆名家は最盛期を迎え、敵対勢力を次々と滅ぼしていきました。 そして政治、外交と力を入れ、大勢力の伊達、武田、北条と同盟を結びます。 しかし蘆名盛氏が1580年に死ぬと蘆名家は勢力を弱めていきます。後継者が殺されたり、病死したりしたためです。 佐竹氏から養子を迎えることでなんとか落ち着きを取り戻しますが、勢力を維持するのに精いっぱいでした。 1589年、伊達政宗と戦い敗れた蘆名家は本拠地から逃げ蘆名家は没落していきます。 1653年に最後の当主千鶴丸(せんつるまる)が事故で死に蘆名家は滅亡するのでした。

蘆名盛氏の生涯

蘆名盛氏は金山開発に力を注ぎ国を財力で強くしていきます。1542年になり周辺の敵に対して攻撃を開始し、勢力を広げることに成功します。 しかし、その敵の中の一人、田村氏には手を焼きます。常陸(茨城県)の佐竹氏と田村氏は手を組んでおり、佐竹氏の援助があったからである。そこで蘆名盛氏は武田信玄や北条氏康と手を組み佐竹氏を攻めるように頼みます。 武田信玄と上杉謙信を巻き込んだ争いは数年続き、1574年田村氏の当主が死去、これを機に一気に盛氏は田村氏への攻撃を強め、降伏に追い込みます。 1568年蘆名盛氏は隠居していたが、1575年当主の息子盛興(もりおき)が毒殺されてしまいます。それに盛氏は怒り、部下に禁酒命令を出し、盛氏自身も酒を飲まなくなりました。 そこでもともと敵だった二階堂氏の子供を養子とし18代当主とさせ、盛隆(もりたか)とさせます。実質的な権力は盛氏が握り盛隆は操り人形でした。 こうした体制は盛氏が死去するまで続きました。

注目エピソード

、蘆名盛氏は有力大名と手を組み、勢力の維持を図ります。特に、武田信玄との関係を重視し、1564年信玄と協力して上杉謙信を攻める。

本拠地

会津若松城(あいづわかまつじょう)、1384年に蘆名家により築城されます。当時は黒川城と呼ばれていました。1589年伊達氏のものとなるが、豊臣秀吉の命令で、蒲生氏郷(がもううじさと)、上杉景勝(うえすぎかけがつ)と城主が変わった。

まとめ

1521年に蘆名家に生まれた蘆名盛氏は1537年蘆名家当主に、1568年に隠居はするものの、実権は握り続け、1580年に病死するまでは蘆名家の一番として活躍し続けた。 以上、蘆名盛氏でした、少しでも参考にしてもらえれば幸いです。

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