最上義光の生涯をわかりやすく簡単に解説!秀吉を恨んでいた?!

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最上義光(もがみよしあき)っていう人物ご存知ですか?主に出羽(現在の山形県)を勢力としていました。この最上義光は父親からの愛情をほとんど受けずに育ちました。なので自分の息子たち、特に駒姫とよばれる娘をとくにかわいがるんですよね。ですが、その駒姫は豊臣秀吉によって処刑されてしまいます。このときに秀吉、豊臣家に恨みを持ったという話があります。

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そもそも最上家とは

最上家は足利将軍家の一族の流れを持っています。室町時代初期には大勢力となりましたが、一族同士の争いにより、衰退してしまいます。1514年には伊達氏と戦い敗れ、その配下となって伊達氏の操り人形とされてしまいました。しかし、1542年伊達氏にも内部分裂が起き、その混乱に乗じて独立をするのでした。 そして最上義光が11代当主となると、山形城を本拠地に次々と敵を滅ぼし、勢力を広げていきます。伊達氏とは妹をとつがせることで関係の改善もはかっています。 1590年豊臣秀吉に従い24万石の大名となるが、同時に家康にも近づき、秀吉が死ぬとすぐさま家康に従います。 1600年に関ヶ原の戦いが起こり、直接参加はしませんでしたが、上杉軍を苦しめた功績により57万石の領地を得ました。 最上義光が死んだのち、家中で騒動がおき、領地をすべて没収されてしまいましたが、近江に1万石を与えられ、最上家は存続が許されるのでした。

最上義光の生涯

最上義光(もがみよしあき)は幼いころから優秀でした。誰もが11代当主になるだろうと考えていましたが、義光の父義守(よしもり)は義光の弟を当主にしようと考えます。しかしそれは家臣たちの意見により却下となり義光が最上家当主となりました。ですが、これにより父義守と義光には溝ができてしまうのでした。 1574年その溝が争いに発展し、弟の義時が反乱を起こします。それに父義守も加担し義光を殺そうとします。反乱はすぐに収まるのですが、怒った義光は弟とそれに味方した家来も皆殺しにしてしまったのでした。 父親からの愛情を受けず育った義光は息子たちを可愛がります。娘の駒姫は特に愛情を注いでいました。この駒姫は東日本で一番美しいと呼ばれており、それを聞いた豊臣秀次に、駒姫を側室にしたいといわれます。何度か断るのですが、いつまでの逆らうわけにはいかず、結局側室に出すことを決めるのでした。 ところが側室に出すと決まった1595年秀次は秀吉に謀反を疑われ、その秀次の妻子も皆処刑されてしまいます。その中にはこの駒姫もおりわずか15歳で義光は娘を失ってしまうのでした。しかも、駒姫はまだ秀次に会ってすらいませんでした。 これにより義光は秀吉に恨みを持ったともいわれています。 そして1600年の関ヶ原の戦いには徳川家康の味方となり、1614年に病死するのでした。

注目エピソード

1600年9月、上杉軍の直江兼続(なおえかねつぐ)が長谷堂城(はせどうじょう)攻めてくるのですが、伊達家に応援を頼み抵抗、兜に銃弾を受けながらも、上杉軍を撃退します。

本拠地

1356年に築かれた山形城、義光は大幅に回収します。1596年ごろ基礎的な回収を終えて57万石の本拠地となりました。最上家が領地を没収されると、鳥居忠政(とりいただまさ)の城となりました。

まとめ

1546年最上義光は生まれます。1571年に最上家当主となり、1590年には24万石の大名に、1595年には大事にしていた娘、駒姫を失ってしまいますが、1600年57万石の大名になります。そして1614年に病死してしまいます。 以上最上義光について簡単に解説しました。少しでも参考にしてもらえれば幸いです

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