津軽為信についてわかりやすく簡単に解説!手段を選ばない男

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津軽為信って知っていますか?

おそらく知らない方が多いのではないでしょうか?

津軽為信とは戦国時代の(津軽地方)現在の青森県を支配していた大名です。

津軽為信は目的のためには手段を選ばない、言い換えれば冷酷な人物といえるでしょうか、そんな津軽為信の事を簡単に解説・紹介していこうと思います。

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そもそも津軽家とは

津軽家はもともと大浦と名乗っていました。

古くから堀越城(現在の青森県にある城)を本拠地に、津軽地方(現在の青森県の西側ですね)に勢力を張っていました。

しかし、となりの地方を支配する南部家によって自由を奪われてしまいます。

どうしても自由から解放され独立したかった大浦家は為信の代になって独立するための行動を開始しました。

為信が生まれてから21年後の1571年南部家の一族の石川高信(いしかわたかのぶ)をほろぼしたのをきっかけに、以降17年間南部家との戦争を続けました。

南部家との戦争中の過程で同地方に絶大な影響力をもっていた北畠顕村(きたばたけあきむら)をほろぼします。

そして1588年に津軽地方を統一

そして津軽地方を統一したことをきっかけに、津軽性を名乗るようになりました。 豊臣秀吉死後は家康の味方となり勝利、江戸時代となり弘前藩を開きました。

津軽為信の生涯

津軽為信は目的のためなら手段を選ばない人でした。

実際に南部家からの独立と津軽地方の統一のためならばどんな手段をも用いていたそうです。

例えば1571年の南部一族石川高信を滅ぼした時には大量の武器を輸送し、高信が油断しているところを奇襲攻撃したり、大量の忍者を敵城に忍び込ませたりして城を混乱させたりなど様々な手段を用いて南部家と戦争をしています。

為信は外交にも力を入れていました。為信は津軽地方を支配を認めてもらうべく豊臣秀吉に早くから近づき支配を認めてもらっていたそうですね。

しかしながら、秀吉が死に1600年に関ヶ原の戦いが起きたときに家中が分裂してしまいます。

そして部下の裏切りにより本拠地の堀越城まで奪われてしまいます。

為信は東軍に味方し、そして徳川家康が勝利たため津軽地方4万7000石の大名になりましたが、1603年為信の長男信健(のぶたけ)が病死してしまい、ショックを受けた為信もまたその2か月後に病死してしまうのでした、、

注目エピソード

1578年津軽地方の絶大な影響力を持っていた北畠顕村(きたばたけあきむら)を攻撃し、北畠顕村は降参するが、ようしゃなく切腹に追い込んだのです。

津軽家の本拠地

堀越城(ほりこしじょう)、津軽地方(現在の青森県西部)にある為信の本拠地です。

歴史は古く1360年から津軽家の本拠地でした。一時期津軽家は大浦城に本拠地を移しましたが、改修が行われて、そしてふたたび本拠地となります。

1611年弘前城ができたのと同時に廃城となりました。

まとめ

1550年に誕生した為信は独立のために、1571年南部一族の石川高信を攻め滅ぼしました。

そして1578年には同地方の北畠顕村を滅ぼし、1588年に津軽地方を統一、そして1600年に4万7000石の大名となり、新たな本拠地弘前城を1603年に建築、そして1607年に京都で病死するのでした。

以上津軽為信について簡単に解説してきました!少しでもこの記事で津軽為信の事についてわかっていただけたなら幸いです。

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