徳川家康の生涯をわかりやすく簡単に解説!信長と家康の関係は?

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徳川家康(とくがわいえやす)、信長と同じく誰もが知っている人物でしょう!最終的にはこの人が天下を取ることになるんですよね。

ただ、家康も幼少期は人質になったりして大変だったんですよ~!あまり家康について天下人になったこと以外は分からないって人が多いと思いますので簡単紹介・解説させていただきますね☻

信長と家康の関係も見ていきましょう!!

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そもそも徳川家とは

最初は徳川家康の姓は「徳川」ではありませんでした。1566年、家康が25歳の時までは松平(まつだいら)という姓だったんですよ~。

松平家は室町時代に僧侶が三河に住み着いたことから始まったといわれています。

7代当主清康(きよやす、家康のおじいちゃん)の時代には勢力を広げ、岡崎城を本拠地として三河だけではなく尾張の一部までも進出するくらいにまで勢力を伸ばします。

しかし、清康は部下によって暗殺されてしまうんですよね。

清康の部下は織田家の策略により、そそのかされたという説があります。確証はありませんが…

この時はまだ同盟関係にはありませんでした。

清康がなくなったことをきっかけに、松平家は勢力を失って隣敵国の今川氏に従わなければならないほど衰弱してしまいました。

9代当主家康は今川氏の人質となるのですが、1560年織田信長が今川義元を倒した戦い(桶狭間の戦い)をきっかけに今川氏からの独立することに成功します。

1564年には再び三河を統一。そして松平姓では官位をもらうことができないため源氏の徳川姓を名乗るようになります。

その後本拠地を浜松城に移し、1600年の関ヶ原の戦いを勝ち抜いた家康は最終的に1603年、江戸に幕府を開くのでした。☻

徳川家康の生涯 信長との関係は?

鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす

1542年家康は松平家に生まれます。家康は我慢強い性格だといわれています。この「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」という歌にもある通り家康の生涯は我慢の連続でした。

最初の我慢は今川氏に人質として生活していたことでしょうか。6歳から人質として13年間も不自由な暮らしをしていました。

次は織田信長と同盟したことです。はじめのうちは良い関係を保っていたそうですが、のちに家康はだんだんとこき使われるようになり、信長がピンチの時は基本的に家康は援軍を出すように命令を出されていたそうです。自分自身がピンチになったときはほとんど信長に助けてもらうことはありませんでした。

その信長が本能寺の変で亡くなったことで家康には絶好のチャンスが訪れます!!

しかし秀吉に先を越され、天下を奪われてしまいます。秀吉に従うようになった家康は領地を取り上げられ関東に移るように命令されてしまいます。

このように家康の生涯は我慢の連続だったのです。

その後は皆の知る関ヶ原の戦いに勝利し、やっとの事天下人になるのでした。

注目エピソード

1564年、一向一揆にをしずめ、三河を統一します。3年あまりの戦いだった。部下の大半が一向一揆に参加したためです。さすがの家康もかなり苦労したようです。

本拠地

1570年、今川氏の旧領を奪い取り、領地が増えたことにより岡崎城から浜松城に本拠地を移します。

武田信玄に敗北した戦(三方ヶ原の戦い)はこの城の近くで行われたといわれています。1586年に駿府城に本拠地を移すまでは家康の本拠地として使われていました。

まとめ

1542年に生まれた家康の生涯は我慢の連続であった。今川氏に人質になったり織田家の人質になったりと不自由な生活を送ります。

同盟を組んだ際もこき使われ秀吉にも従わざる状況に、そんな家康でしたが秀吉が死んだことをきっかけに天下人へとなるチャンスが訪れ、関ヶ原の戦いに勝利したことをきっかけに、天下を我が物へとするのでした。

以上徳川家康の生涯についてわかりやすく簡単に解説させていただきました。

少しでも参考になれば幸いです!

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