戦国時代の流れを簡単に4つに分けて紹介!

戦国時代の流れを簡単にご紹介します。 その他
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この記事では戦国時代の流れについて4つに分けて戦国初心者にもわかりやすく簡単に紹介していきたいと思います!

詳しい人からしたら「そんなわかりきっていることすでに知っているわ!!」と、思うかもしれませんが「ほとんど戦国時代について知らない」という方にはオススメです!☻

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戦国時代の流れを簡単に4つに分けて紹介!

1.戦国大名の誕生 1480~1560年ごろ

まずは戦国大名が誕生した経緯から。

戦国時代以前は室町時代と言い、室町幕府が日本各地に守護大名と呼ばれる国ごとに権限を持つものが支配していました。

しかし、1467年に起きた応仁の乱(室町幕府後継ぎを決める争い)が起きてから幕府の力が急速に弱まり全国各地の守護大名が自分の領地を守るために、言い換えれば自分のために争いを起こし始めるのです。

そんな争いのなか混乱が生じそんな最中で自分の力で大名になりあがったものがおりました。それが戦国大名です。

その代表例が美濃の大名斎藤道三や尾張を支配する織田信長の父親織田信秀です。

斎藤道三という人物は最初は油商人でしたが、国主を追放したりして家をのっとりました。

織田信秀は守護代と呼ばれる守護の部下でしたが守護以上に力をつけ尾張一の勢力を誇りました。

1480~1560年ごろの主な有力大名は薩摩の島津氏、中国地方の大内氏と尼子氏、美濃(現在の岐阜県)の斎藤氏、駿河.遠江.三河の三国を支配する今川氏、関東の大名北条氏、最後に皆の良く知る武田氏と上杉氏です。

織田氏はまだこの時尾張一国すら統一できていない状況でした。

2.織田信長の勢力拡大 1560~1580年

戦国大名たちは自分の領地の支配がうまくいくと、やがて京都に上り天下人になることを夢見るようになっていきます。

中でも三か国をを有する今川義元は当時天下人に最も近いと呼ばれていたのです。

そんな義元は準備を重ねに重ね、1560年についに西へと進軍を始めます!京都に行き天下人となるために。

その京都に行く途中にはもちろん敵国がいます。その敵国と言うのが織田氏の領土尾張国です。

しかし、尾張は小国、今川義元にとっては敵ではありませんでした。一国の主織田信長、三国の主今川義元。どちらが勝つのか目に見えてわかりますよね💦

しかし、その今川義元を織田信長は打ち破ってしまうのです。

そこから勢いづいた信長は尾張を完全に統一、斎藤道三の美濃を支配し二か国の国主へと一気に大大名へと成り上がります。

こうしてやがて信長は京都に行き上洛を果たします。それ以降もあり得ないほどのスピードで領地を広げていきます。

しかし、それをよく思わなかった信長の周辺の大名が協力して信長討伐に出ます。いわゆる信長包囲網ですね。

もちろん数々のピンチを迎えますが、信長はそれを乗り越え日本で最も天下人に近い男となるのです。

今川義元を破った時点で信長のすごさは軍を逸してますがそれ以降もたった一代で何十ヶ国も支配する大名になるなんてすご過ぎますよね!

だからこそ人気も知名度も高いのでしょう☻

3.豊臣秀吉、天下人に! 1580~1600年

最も天下人に近づいた男、織田信長!

そんな信長に起こるあの事件が訪れます。本能寺の変です。

理由は今でも定かではありませんが、信長の家臣であった明智光秀という人物が織田信長を裏切り信長が寝ている本能寺に向け攻撃を仕掛けます。

不意を突かれ圧倒的に兵力が劣った信長は為すすべなく明智光秀によってうたれてしまうのでした💦

次期天下人に最も近くなった男は明智光秀かと思いきや、そうではありませんでした。

同じく信長の家臣であった羽柴秀吉が主君のかたき討ちのため明智光秀は打たれてしまいます。

誰よりも早く主君のかたき討ちを果たした秀吉はまんまと信長の後釜に座り、信長の後継者として天下人に最も近い男となりました。

しかし、天下人に最も近い男になったとはいえまだまだ四国や九州、関東、東北には秀吉に敵対する大名がいました。

そこでまずは四国に11万の大軍で攻め込みます。圧倒的な大群の前に四国勢は降伏。あっという間に秀吉は四国をと統一してしまいます。

つぎに、九州攻め。秀吉は20万の大軍で攻め込み九州勢は降伏、同じく九州を統一します。

西日本を統一した秀吉は東日本の関東、東北の大名に向けて降伏の手紙を送ります。

これにより東北の大名は降伏しましたが、関東の大名、北条家は降伏はせず徹底抗戦の構えに出ます。

西日本と東北を統一した秀吉と関東を統一している北条家との戦い。秀吉は圧倒的な財力と兵力で力づくで降伏させるのです。

こうして秀吉は天下を統一。主君信長が成し遂げられなかった天下人へとなるのでした。

その後秀吉は日本のみならず海外への進出を試みます。朝鮮へと軍を向けるのです。

しかし、明が朝鮮の味方をしたりなど、日本軍は思ったより苦戦し秀吉が途中で病死したため日本へと引き返すことになりました。

4.徳川家康の時代に! 1600年~

秀吉が病死したことで、豊臣政権の力は弱体化します。そこで豊臣家の次に日本で力を持っていた徳川家康が自分が天下人なろうと野心をあらわにし始めます。

秀吉が病死し弱体化したとはいえそれだけでは弱体化することはありませんが、弱体化した理由に秀吉の後継ぎの豊臣秀頼がまだ幼かったことや、天下を統一して朝鮮へ向けたことで軍が疲弊したこと、豊臣の家臣同士が朝鮮出兵がきっかけで対立してしまったことなどが背景にあったのです。

豊臣政権が混乱している間に各地の大名を巧妙に味方につけていった家康に対してその動きを危険と見ていたのが関ヶ原の西軍を指揮し、豊臣政権を取り仕切っていた秀吉の部下の石田三成と言う人物。

石田三成は家康討伐のために全国の大名に呼びかけ西軍を立ち上げ、対する家康は石田三成と仲が悪い大名に声をかけ味方にし東軍を立ち上げます。

こうして起きた戦いが1600年に起きた関ヶ原の戦いです。

関ヶ原の戦いで結果的に家康は三成に勝利したため豊臣政権の力はさらに弱体化し豊臣家は一大名になり下がり、逆に徳川家康は天下人となり江戸に幕府を開きました。

その後江戸幕府を開いた家康でしたが、時日が経ち秀頼が元服し正式に秀吉の後継ぎが誕生したため家康にとって一大名となった豊臣家と言えども無視できない相手になります。

そこで家康はいちゃもんをつけ豊臣家を滅ぼしにかかるのです。

豊臣家には徳川家に恨みを持つたくさんの武将が集まり最初互いの力は拮抗しておりましたが家康の巧妙な作戦により豊臣家は劣勢に…

こうして家康によって豊臣家は滅亡し、江戸幕府による安定と平和の世の中が260年にわたっておとずれることになったのです。

戦国時代の流れまとめ

以上、戦国時代の流れについて4つに分け簡単に紹介しました

上記に書いた通り、最終的には徳川家康が天下を収めることになるのですが、やはりその土台を築き上げたのは織田信長!

知名度は高いにもかかわらず、日本中で徳川家康や豊臣秀吉の人気があまり高くないのはおそらく信長のおこぼれで天下人になったというイメージが強いからなのでしょう。(^^;)

しかし、決してこの二人もすごくなかったわけではなくむしろどちらもすっごく優秀な武将だったのですよ☻

秀吉は百姓の身分でありながら織田信長の下で戦で多くの活躍を見せ、家康は武田信玄と一度戦った経験があり戦国時代で生き抜く術を知っている等々。

まぁでもやはり一番すごいのは織田信長でしょうけどね(笑)

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