織田信長は滋賀県の安土の地に安土城を建てたことは知られていますが、安土という場所はとりたてて特色はありませんよね。 ではなぜ織田信長は安土に城を建てたのか?
その理由について当時の歴史状況や、信長の政治的・経済的な政策、さまざまな角度から研究を行われていました。
これから織田信長が安土に城を建てた理由をこれから答えていきます。
近江国(滋賀)は上洛するうえで通らなければならない場所であった
戦国武将にとって、京都に入ること、すなわち上洛することは大きな夢でありました。特に今川義元、武田信玄、上杉謙信、そして織田信長はその意識が強かったのです。
これらの武将が京都にいくためには必ず滋賀(当時は近江国)を通らなければなりませんでした。
現在では大阪と東京が新幹線で結ばれたりと必ず滋賀を通る必要がありませんが、当時は強力な統一政権(大大名)であっても交通を阻害する難所がいくつもあり容易にわたることは困難だったのです。
その難所というのは揖斐川、長良川、木曽川と呼ばれる3つの河川。
当時は橋が架かっていることはほとんどなく小さな川であっても橋がなければわたるのには大変な苦労をしなければならなかったのです。
何万もの軍勢が一斉に乗れる船など存在するはずもなく、たとえ距離的には遠くなったとしても、一番コストもかからず時間も要することない道というのが近江国(滋賀)なのです。
それが理由で近江の道は「覇者の道」と言われていました。これがまず一つ織田信長が安土という場所に城を築いた理由です。
何万もの大軍が通れる道が安土城近くの田原坂(たばるざか)という場所しかなかったから。
比較的近代である明治初期、西南戦争の際に政府軍が西へ進行するために通過できる場所というのがこの田原坂(たばるざか)だけでした。
何十万もの大軍を西へ進行させるのは田原坂しかなかったというわけです。
織田信長は田原坂の近くの安土山に本拠地を構えたことにより西に進軍する、もしくは東に軍を進める部隊すべてがこの場所を通ることとなるため近くに住む信長の目に必ず留まります。
この場所を掌握している限り、大軍で侵攻されても事前に察知できる、万が一に備えてすぐ逃げることができる場所として安土城を建てたというわけです。
まぁ信長は本能寺でねらわれてしまいましたが…
安土城のある場所は雪の境界線
安土城を建てた時織田信長には上杉や武田、毛利といった大大名と戦の真っ只中でした。
いくら信長の軍事力があるとはいえ、そのすべてと真っ向勝負するのは絶対勝てないわけではないにせよ、非常に厳しい戦いになると判断したのです。
そこで考えたのが「雪」の影響でした。安土はちょうど雪が降る場所とそうでない場所の境界線だったのです。
少し安土より北へ行くとそこは一面の銀世界、雪で覆われていました。信長にとっても北へ進行できないとう問題はありますが、逆に考えると上杉からの攻撃から守る役割にもなっていたという事です。
安土は日本の中心の地
近江国は北は北陸、東は東海、西は近畿の各文化圏と接しており経済的にも文化的にも強い影響を受けています。
これはつまり東海と北陸と近畿がすべて視野の中におさまり人や物の交流が、大きな時間もかからず簡単に行えたことを示しています。
そしてそれは安土が日本の中心の場所に位置しているという事です。
織田信長は自分を日本国の王とそういう意味を込めて日本の中心に本拠地、安土城を構えたというわけですね。
びわ湖の存在も織田信長が安土の場所に城を建てた理由!
今まで安土が地理的有利の場所っていうのは話してきましたがさらにさらに地理的有利にしたのがびわ湖、そしてそれにつながる川なのです。
今でこそ新幹線や飛行機、鉄道により物資や人の移動は容易になりましたが当時はどうでしょうか?一番早くても馬を使うしかありません。
そこで役に立ってくるのが水路を使用できる船でした。緊急の際に織田信長は船を使っており陸路の半分以下の時間で大木の兵や物資を運ぶことができました。
しかも海と違って湖は一方通行でもなく自由に行き来ができ、目的に応じてどこへでも行くことができる「無限の道」だったのです。
織田信長が安土城の場所を滋賀にした理由まとめ!
織田信長が安土城の場所を滋賀にした理由をまとめますと、
- 近江国(滋賀)は上洛するうえで大名が通る場所だった。
- 何万もの大軍が通れる道が安土城近くの田原坂(たばるざか)という場所しかなかったから。
- 安土城のある場所から北へ行くと雪が降り積もっておりそれを利用し他大名が安土へ攻めてこないようにするため
- 安土は日本の中心の地、信長は権威を示したかった。
- びわ湖が近くにある事により物資や人の行き来を盛んにさせた。
これらを考慮したうえで、織田信長は安土城をあの場所に建てたというのが研究者の出した理由です。